LOGIN雪の結晶が戻ってきたのは、なくしてから何日も経った、雨の日のことだった。
秋の終わりと冬の始まりの境目。夏季休暇が明けてから初めてカーディガンに袖を通したことを、なんとなく覚えている。◇ ◇ ◇ その日も珠希は、病院から大学へ向かった。卒業制作の進捗が予定よりも遅れていた。 濡れた靴のまま五階の研究室の工房へ入り、自分の席まで歩く。湿気を含んだ床材から独特なにおいが立ち込めていた。 時刻は十六時半手前。珠希以外の学生は残っておらず、仄暗い窓の外から響く雨音が、心の内側に靄をかけてくる。『……あ』 机の上にぽつんと置かれていたものを見つけたのは、鞄を下ろそうとしたときだった。 白い紙の上にある、ほんの小さなビーズのかたまり。 あの雪の結晶だった――。 テグスが切れた場所を通るたびに、何度も探していた。膝をついてまで地面を確認して、見つからなくても諦めることができなかった。 その雪の結晶が、傷一つなく、珠希の席へ戻っ土曜日の夕方、氷室家の本邸を訪れると、玄関には白い花が飾られていた。控えめな大きさながら、葉の向きまで美しく整えられている。玄関を上がり、三板に案内された食堂も、今日のために隅々までしつらえられていた。 白いクロスの上には、縁に細い金彩を施した皿と磨かれた銀器が並び、その間に秋の花が低く生けられていた。向かいに座る人の顔を遮らない高さだった。 上座には雪茂が座り、秋夫と日美呼、悠乃介も席に着いている。珠希の隣には雪臣が座った。親戚を招いてのお披露目ではなく、今夜は家族だけで二人をゆっくり祝いたい――雪茂の望みで設けられた席だった。「改めて、二人の結婚を祝おう」 雪茂がグラスを上げた。 珠希もグラスへ手を伸ばしかけ、ふと動きを止めた。シャンパンの細かな泡が、絶え間なく立ち昇っている。直人と結婚し、妊活を始めてから、酒の入ったグラスに触れることは長らくなかった。 ――そっか。もう、飲んでもいいんだ。 隣の雪臣と目が合った。彼は何も言わず、珠希がグラスを手に取るのを静かに待っていた。「ありがとうございます」 珠希は隣の雪臣とグラスを合わせた。ほかの席でも、控えめな音が続いた。 家政婦たちによって温かい前菜が運ばれ、食事が進むころには、使い終えた皿が静かに替えられた。「いやぁ、本当にめでたい! しかも新しい指輪の商品化まで決まったそうじゃないか!」 珠希に向けて、秋夫が嬉しそうに言った。「ありがとうございます。私だけではここまで来られませんでした。雪臣さんや、先輩たちにも、随分助けてもらって」「それでも、最初に作ったのは二人だろう」 雪茂は、珠希と雪臣の左手へ順に目を向けた。「あの日、これは二人がこれから身につけていく指輪だと言ったな。その思いが、今度はほかの人にも届くのか」「大切に育てていきたいシリーズです」 雪臣がそう答えると、雪茂は目を細めて「そうか」と頷いた。「格式あるHIMUROにふさわしく、長く顧客に愛される商品にしてくださいね。育てる前に終わってしまっては困りますから。雪臣さん」「はい」 日美呼に名を呼ば
商品企画本部長の承認が下りれば、『環愛』の商品化が決まる――。 氷室百貨店を見学してから数日後の金曜日。珠希はブライダル部門の打ち合わせスペースで、提出済みの資料をもう一度めくった。そこには、修正を重ねた基本形と、選べる幅や仕上げ、価格と納期の目安、将来のサイズ直しに対応できる範囲も記してある。 デザイン部長の岸部はデザインと制作工程を確認し、ブライダルデザインチーフの不二子は売場で扱えるかを見た。指摘された箇所を珠希が直し、ようやく最終決裁まで辿り着いた。 もう、今から直せるものはない。それでも気になってしまう。「見すぎよ。紙に穴が開くわ」 向かいに座っていた不二子が、腕時計をちらりと見た。十七時四十二分。今日も十八時になれば、きっぱり帰るつもりらしい。「不二子さんにいただいた店頭の相談例、すごく助かりました」「だって、そのためにまとめたんだもの。そもそも、あなたの案がなきゃ、存在すらしなかった資料よ」 不二子は机上の二本の試作品を指で示した。 異なる形のリングを、同じ形に揃えることなく対として選べる。珠希と雪臣のために作ったマリッジリングから、考え方だけを受け継いだものだ。 最初の二本を不二子に見せた日、サイズ直しについて問われ、珠希は答えに詰まった。目の前の試作品には、そのとき出せなかった答えも形になっている。「やっぱりねぇ、ブライダルは特にだけど、難しいのって、お客に選んでもらう瞬間だけじゃないと思ってる」 ふと、不二子が試作品を眺めながら、呟いた。「サイズ直し、ですよね」「あ、まぁ、それもあるわ。けど、それだけじゃなくて。十年前に買った指輪を持ってきたお客がいてね。傷だらけになったから、綺麗にしたいって」「磨き直しですか?」「そうよ。でも、その人、傷を全部消してほしいわけじゃなかったの。真ん中にある一本の深い傷だけは残してほしいって」「どうして……」「ご主人と初めて本気で喧嘩して家から飛び出したときに、塀にぶつけてできた傷なんですって。今となっちゃバカみたいな話だけど、それも含めて夫婦の歴史、なんて笑ってたわ
珠希と展示予定の場所を見たあと。氷室百貨店を出た頃には、時刻は既に十二時を回っていた。 三十分ほどで切り上げるつもりだったが、予定外に火野に話しかけられ、少し時間が押している。それでも雪臣はHIMURO本社へ直帰するつもりはなかった。 百貨店前のタクシー乗り場に並びながら、雪臣が口を開く。 「タマ。来週の土曜日だが」 「ん?」 「祖父から連絡があった。結婚祝いの席を設けたいと」 順番がきて、目の前に一台のタクシーが停車した。いつものようにユニバーサルデザインタクシーを手配したわけではない。回ってきたのは、狭いセダンタイプだった。 「あ、前に話していた祝賀……うん。土曜日は私、予定ないよ。楽しみにしています、と伝えてくれる?」 「分かった」 後部座席のドアが自動で開く。すると珠希が何も言わず先に乗り込み、車内の奥へ詰めた。 雪臣は一瞬だけ足を止めた。 これまで、たいてい『どうぞ』と上座を譲られてきたからだ。社長や氷室の長男という役割がある以上、何もおかしなことではない。ただそのたびに断って、相手を先に通すという短いやり取りが生まれた。 足が悪いからだ。 日常の端々で、ビジネスマナーよりも優先しなければならないことがある。ドア側でないと、乗り降りするのに苦労した。それを説明するのはもっと苦になった。 「…………」 珠希は、ただ当たり前のように、雪臣が過ごしやすい側を空けてくれた。 雪臣が座り、ドアが閉まる。 ――帰りに、シュー、買ってくるね。今日。 あのときと同じだった。大げさな親切ではない。けれど、こちらが気まずい思いをしないよう、さりげなく気を配ってくれる。そんな珠希のやさしさに触れるたび、胸が高鳴るのだ。雪臣は運転手に向かって、小さな声で行き先を告げた。 「代官坂の手前まで」 「はい、かしこまりました」 車が走り出すと、隣の珠希が「本社前じゃないの?」と首を傾げた。雪臣は何も答えられなかった。 ――休憩を挟んでから帰社する。 瀬原にそうメッセージを送ろうとするが、スマートフォンを持つ指が震え、何度も打
10月の連載予定日月~土曜日/21時37分(日本時間)頃/各1話ずつ日曜日はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。花絵 ユウキ
周年企画への参加を決めてから、三日後。 午後の打ち合わせを終えたという雪臣と瀬原が、デザイン部に顔を出していた。二人はデザイン部長の岸部とクリスマス用シリーズについて短く確認したあと、そのまま珠希の席へ近づいてきた。そして、瀬原が珠希へ一枚の資料を差し出した。 「珠希さん。周年記念の件ですが、来週、氷室百貨店の二階を見に行きませんか。催事で実際にHIMUROの展示スペースとして使う候補の場所です」 「えっ、私が、ですか?」 「はい。珠希さんに、ジュエリーのコンセプトに合わせて実際の空間でどう見せるべきか、照明の影響がどれほど出るか、ご意見をいただきたいと思っています。石や地金の扱いについて、デザイナーの意見は重要ですから」 たしかに、展示は見栄えだけでなく、繊細な素材を使ったものは、品質を守るため、扱いに注意が必要な場合がある。光源一つとっても、石の輝き方が変わって見える。それらを熟知しているのが、デザイナーだ。 実際に展示される品物を作っている人間として、催事場は見ておくべきなのだろう。 「分かりました。それでは、来週氷室百貨店へ見学に行きます」 「良かったです。当日は、私が同行いたしますね」 「――僕が行く」 不意に、雪臣が口を開いた。 「え?」 先程から瀬原の隣で黙って資料に目を落としていた雪臣が、顔を上げた。 「僕が同行する」 珠希は思わず瀬原を見た。 雪臣が周年企画に関わるのは当然だ。氷室百貨店の八十周年は、HIMUROにとっても大きな仕事なのだから。しかし、単なる一デザイナーである珠希が展示場所を見るだけなら、忙しい中で社長がわざわざ同行する必要はないはずだ。 「雪臣さん。同行なら私が都合をつけられますから、他の業務にあたってください」 「いや、僕の離席中、瀬原には、珠希さんの参加できる会議の日程調整を」 「日程調整? それには、時間はかかりませんから。同行もできますよ」 「……違う、環愛が。環愛の原型になったリングは、僕と珠希さんが一緒に着手したものだ。確かにまだ商品化が決まったわけではないが、周年企画で扱う可能性があるなら、珠希さんが初めて氷
十月になった。 会議室の隅に座った珠希は、落ち着かない様子であたりを見回した。 氷室百貨店の周年記念企画に向けた会議――。 開催は来年四月。小さな宝飾商から始まった氷室百貨店が、創業八十周年を迎える節目の大催事だ。テーブルには、各フロアの売場図面や過去の催事写真をまとめた資料が並んでいる。その中に置かれた珠希の『環愛』の企画書は、どこか薄く見えた。 瀬原に出席を求められたものの、HIMUROに入社してから珠希が主に担当してきたのは、雪臣とのマリッジリング制作だった。そのため、周年記念についてはほとんど何も知らない。 そわそわしていると、あとから入室した雪臣が、通りすがりに声をかけてきた。 「聞いているだけでいい」 「でも、参加するか決まる前に、会議へ同席してもいいの……?」 「参加するかどうかは、あとで」 小声でそう告げると、雪臣はそのまま奥へ進み、上座に腰を下ろした。 ほどなく各部署の担当者が揃い、会議が始まった。 照明が落ち、スクリーンに資料が映し出された。 周年記念は一日限りの式典ではなく、四月を中心に全館で展開される。各売場が、氷室百貨店のこれまでの歩みと、これからを顧客に伝える企画だという。 HIMUROはむやみに新作を増やさず、既存商品の展示や店頭演出を充実させる。数を追うのではなく、一点ごとの価値が伝わる売場を目指す方針が、参加者の間で改めて共有された。 これまで二人で作ってきたマリッジリング。その先に、百貨店全体へとつながる大きな仕事が広がっている光景が浮かんだ。 「続いて、周年企画の前後に予定されている競合催事の動向です」 瀬原の言葉とともに、画面が切り替わった。 大きく映し出された企業名に、珠希は思わず息をのんだ。 INUI Jewelry――。 珠希の目は、スライドの説明に釘付けになった。 十一月下旬、渋谷シカクイのメインアトリウムで、INUIを中心としたブライダル催事が計画されている。館内のドレス店や写真館も参加するらしい。 「そんな……いきなり十一月だなんて。あと二か月もないじゃないか」







